夷酋烈像『ツキノエ』
夷酋烈像12点の中で、威風堂々としていて印象に強く残るのがツキノエです。道廣が波響に命じた12名の肖像画のシンボルのような存在と言えるでしょう。そもそも国後(クナシリ)の総部酋長だったツキノエはアイヌの英雄であり、部下五百人、優れた統制力を持っていたとされています。ロシア人とも交流し、この時は70歳になっていました。大きな体をさらに大きく見せるロシア製のマントと靴、そして蝦夷錦を着ています。クナシリ・メナシの戦いの鎮圧に協力したアイヌの酋長達は、松前藩に呼ばれ凱旋パレードに参加させられます。そのときに着せられたのが蝦夷錦です。彼らは最大級の処遇を与えられたのです。これこそが、松前藩が徳川幕府の不信感を打破する方策だったのです。夷酋烈像はそのような中で描かれたのです。しかしツキノエは高齢のためパレードには参加していません。つまり松前には来なかったのです。したがって蠣崎波響はツキノエをイメージして描いたことになります。
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夷酋烈像『ツキノエ』(1790 寛政2年/ブザンソン美術館蔵)
屈捺失律總部酋長 貲吉諾謁

この絵が描かれた1790年には、先日掲載した伊藤若冲が『西福寺群鶏図襖絵』『鶏図障壁画』を描いています。写楽や北斎が登場する前の時代で、円山応挙や勝川春章が活躍していました。そう考えると『夷酋烈像』がいかに異質な作品であるかがわかります。西洋ではゴヤの『裸のマハ』『着衣のマハ』の誕生が1798-1805年といわれていますので、近代美術が始まる以前に、松前(日本)ではすでに内面に迫る人物画が誕生していたことになります。波響は日本美術史の中ではほとんど評価されていません。しかしあらためて世界の美術史を見直してみると、『夷酋烈像』には、他にはない個性、写実性、そして装飾的な美しさがあったことがわかります。このことは、いまこそ再評価されるべきものだと思います。
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波響は構図や形にこだわる画人でした。したがってツキノエについても何度も考察されていたことが粉本から推測できます。マントと蝦夷錦のバランスにまで配慮しているように思えます。すでにこの時点で全体の構成ができあがっていたのです。
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この作品の最大の魅力は、ツキノエのリーダーとしての威厳が描き出されていることにあります。それを象徴するのが髭であり、堂々とした表情にあります。1本1本丁寧に描かれた髪の毛や髭は作品のリアリティを高めていますし、デフォルメによってたくましく見せています。巧妙に練られた作品でもあります。
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もう一つのポイントは蝦夷錦の朱色とマントの黒色です。そのコントラストが画面を引き締めます。補色の緑も視覚的に使われています。指や爪には明暗がつけられ、洋画に近い立体感を出しています。
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蝦夷錦は細部に至るまで丁寧に描かれています。A3サイズの小さな作品であるにもかかわらず、それを大きく見せているのは、この描写力と巧妙なデフォルメなのです。それが強烈な存在感をつくりだしているのです。
by manabinomori | 2010-07-31 22:02 | 夷酋烈像
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